立ち仕事なのでいらない、と追い出したはずの椅子が、なぜかそこに居座っている。鍋からたちあがる湯気と同じくらい、いや、それよりもたかい温度の視線を、背中に浴びている。じりじりと真夏の太陽のように音をたて、おのれの服が焼け焦げる。
「遊星、足りないものはないか? おなかはすいていないか? 喉がかわいたりは?」
 さっきからずっとこの調子だ。ある日から突然こちらを見つめてくるようになったジャックは、訪問の間隔を、隔週、毎週、週に2回、隔日、毎日と徐々に狭めてきて、ついには1日中、そこにいるようになってしまった。
 その上このまめまめしさだ。他人に構われるのが大のにがてな遊星は、うんざりとしていながらも、その純粋なる好意を無下にすることが出来ず、いつもと変わらぬ無愛想をかおに貼り付けるだけで、追い出せやしないのだった。
「……こんなところにいていいのか。ほかの仕事は」
「心配するな、引き継ぎは滞りなくすませてある」
 そういう問題ではないのだが……。視線の違和感を諦観で洗い流して、くちをつぐんだ。この様子だと、これ以上なにをいっても変わらぬだろう。集中してしまえば、周りになにが起ころうと・だれがいようとも関係ない。あつい視線を意識からはずして、目の前のものに集中する。自覚できるほどの集中力に、ゆがむ口元を抑えられなかった。
(わらっている……)
 単調にみえる作業を、遊星は自らのからだの一部のように、疎ましがることなく、ごく自然にこなしてみせる。手の込んだ作業ほどよろこばしいと言いたげな精巧な作品は、それを体現していた。
 その尖った先で喉を突かれてみたいと憧憬する。
観察をはじめてもうどれくらい経つだろう。仏頂面と無愛想が具現化したみたいな遊星でも、1日中ながめていると、それなりの変化も目にみえるらしい。忙しく動く衣服の皺を追いかけていると、ふとそれが緩むときがあって、案の定、遊星はそのとき、おのれの手技に酔っているのだった。持ち主さえ夢中にさせる指先が、他人を惹きつけないなんてこと、あるだろうか。
(うつくしい……)
 ジャックはそれを存在で証明してみせる。うっとりと潤んだ眼がふたつ浮かんでいる。その視線と賛美が作品に向けられているのか、それとも、また別のものへ向けられているのかは、ジャックにしかわからないことだった。
 組みかえた足のつま先を、床になすりつけて、かたまってしまった足首をほぐす。いくら目の栄養分になるとはいっても、朝日の昇るまえからこうしているのだ、手をうごかさないジャックは、暇で仕方ない。ついと腕時計に視線をやると、すでに昼食の時間をすぎている。遊星は、休むことなく、ずっとそこに立ったままだ。腹はへらないのだろうか。足は疲れてない? 喉は?
「遊星」
「……」
「おい、遊星! 聞いているのか。昼食を取ろう。用意はおれがする」
「作業中ははなしかけないでくれ」
「腹がへっては戦もできぬというだろう。遠慮するな。おれはむかし料理学校に行こうとおもっていたほどの腕前だ」
 はなしの繋がりようのなさに辟易する。といいつつも、遊星自身、ながい時間集中していたせいで、目は疲れているし、腹もへっていた。作業もきりがいいし、誘いにのってやるのもわるくないかもしれない。もちろん、ジャックはそんなこと、思案にもいれちゃいなかったけれど。
「さあ、食え。おかわりは用意してあるから、いくらでも」
 ふだんなにを食べて生きているのだろうと首を傾げるくらい、遊星の家には食料がなかった。あったのは大量の砂糖の袋と、湿気た乾パン、埃のかぶったカップ麺……食生活さえさだかではない。
 バスケットをあけると、ラップに包まれたサンドイッチのゆたかなパンのにおいが、ふたりの鼻腔をくすぐった。きめのこまかいパンの白さはまばゆく、あいだにたっぷりと挟まれた色とりどりの具は、味もさることながら、見た目がうつくしく、さすが美を愛するおとこと称賛できる出来だった。
「マヨネーズも自家製でつくってみた。味はどうだ」
 持ちにくそうに指先で持ち上げ、くちいっぱいに頬張る。普段あんなに無愛想なくせして、食べ方が子どものように随分とへたくそで、パンくずをぼろぼろこぼしたり、くちの端にマヨネーズをつけたりと、ジャックの優雅な食事をことごとく邪魔した。しかし、それがかわいいと思ってしまえるほど、ジャックは彼に入れ込んでいた。
 咀嚼する喉が上下して、おおきなひとみがジャックを見つめる。くちをひらいたかとおもえば、答えるためでなく、またその丈夫そうな歯でサンドイッチを噛みちぎった。ちぎりきれなかったレタスを1枚ひっこぬいて、そのまま手も使わず、もしゃもしゃとくちに収めていく。野生児のようだ。あきれて見ていると、目を見つめられて、頷かれた。なにごとかとおもったが、先ほどの問いへの答えらしい。素直に頬がピンクいろになる。
 ポットにいれたコーヒーをブラックで飲みながら、ジャックはぼんやりとしている。目の前の無表情のおとこは、砂糖を何杯もいれたコーヒーを舐めつつ、執拗に指先をこすりあわせている。
「なんだそれは」
「?」
「指」
 自分でもいまはじめて気づいたとでも言いたげなかおで、「……なんだろうな」とつぶやいた。いよいよあきれる。なくて七癖とはいうが、ここまであからさまなことに、いままで気づいていなかったなんて。
「おまえはもっと自分に意識を向けるべきだ。……どうだ、今夜、シティまで来てみないか。一晩でいいんだ……」
 無意識なのか知らないけれど、ジャックがものを頼むときのその声色の、あまいことといったら。こうも背の高く、傲慢なおとこに、そうやって頼みごとをされて、無下に断れるものなどいるのだろうか。日付を越える前には帰るという約束のもと、遊星はまたしても、無言でうなずいた。


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