すっかり窮屈な服に身をつつみ、あかりをおとしたバーで、あまいアルコールを舐める。力仕事を知らない、うるわしい白魚のような手は、ぼんやりとした間接照明のひかりをやわらかく受け止め、腰掛けるスツールのふちをなぞっている。それとはまさに正反対の武骨な手は、磨き上げられたテーブルに指をおき、目の前に出された、きれいないろの液体を指差す。
「これは?」
「酒はにがてか?」
「仕事中は酒を飲まない主義なんだが」
「かたいことを言うな。ほら、グラスを」
 カクテルグラスの薄いガラスが、涼やかな音をたてる。このバーにおとこ同士で来ているのはこのふたりだけで、そのうえジャックの目立つ容姿が人の目を引き、おまけにそれにもてなされている相手側の遊星も、すてきな目の色をしていたから、バーにいる客全員が彼らを見ているといっても、過言ではなかった。
 おんなの口紅が「どういう関係かしら」とささやく。
 おとこの顎鬚が「おたのしみな関係さ」と耳打ちをする。
 ひそひそ声で形成された店内には、客を取り巻くようにジャズが流れ、ボトルの棚を裏側から照らす照明が、床をさまざまないろに染めている。紫のひとみを持つジャックは、いつもはうっとりしている夜景に目もくれず、ただただ隣に座るおとこを気にしてばかりいる。空になったグラスを見つけるやいなや、バーテンダーに言いつけ、目の前に現れたのは、コリンズグラスに満たされた、夜空から明け方の空のいろだった。
 遊星は無言でひとくち飲むと、そのままくちを離さずに目玉だけをうごかして、ジャックを煽った。現に細く長い指に支えられたグラスの中身はほんのすこし減っただけで、いっこうに次へいくつもりもみられない。
「挑発とは、いい度胸だ」
 照明に揺れていた水面を喉のおくにおとすと、空にしたコリンズグラスを指先でなじりながら、遊星がいたずらにわらっていた。
「上等だ……!」
 ふたりの前に並べられたショットグラスも、小さいながらにひかりを反射し、それらはきらびやかにかがやきながら煽られた。数えきれぬほど……何度も……何度も……やがて遊星のひとみが潤み、とろりとした涙が表面に溢れたころ、ジャックがつぶれた。
「おい、寝るなよ。まだだろう」
 ゆめゆめ起きる気配はなさそうだ。最後の1杯を飲み干して、立ち上がり、突っ伏したジャックを背負い店を出る。
 タクシーをひろい、ジャックがいつも言っている本社の名を告げる。ゆるやかに発車した窓から空を見上げる。紺色の布にたくさん穴をあけて、やわらかな照明にかぶせたみたいな、母のような夜空が寝そべっていた。
 朝が猛々しい父であるなら、ぬるい夜は母であると思っている。目をとじると、抗いようのない眠気が顔面の皮いちまいの下で渦巻き、瞼を無理やりくっつけてしまう。すれちがう車のライトや、ねむらないシティのひかりは、薄い皮膚などものともしないが、強烈な眠気はなにごともなかったかのように、遊星を深いまどろみへと引きずりおろしにかかる。
 隣にあたたかい体温がある。泥酔した身体とともに目をとじると、サテライトでは感じたことのない感情が芽を出したみたいで、なんだかむずむずする。
(……)
 肩に散らばる金の髪を、指先で引っ張りながら脱力する。自分の指先は、いとしいものを愛撫するためにあるのではない。創造、造形、装飾、ただそれだけのためにこの十指は生えている。誰よりも自分がわかっているのだ。恋に呆けて得られる悦より、それで失われていく研ぎ澄まされた感覚が惜しい。シートのうえに放り出した指先がすりあわされる度、遊星のこころは締めつけられるようにくるしくなったが、やがて完全に寝息をたててしまった。

 伏せられた金いろのまつ毛は、遊星をおおいに奮い立たせた。朝日に照らされたジャックの肌は、年頃のむすめよりもずっときめが細かく、つややかで、健康的な白さがあった。本社の警備室の、ひとつの仮眠ベッドで、遊星は目覚めた。薄いカーテン越しに感じる朝日を浴び、覚醒していくあたまで、そのまつ毛を、その人を、とてもうつくしいとおもった。おとこのくせに、しばたたかせると、華麗な夢虫みたいですてきだ。動物的なふるえが肩を撫ぜ、次第に背筋を下りていった。
 いまは見えないが、そのきれいに長く生えそろったまつ毛がふちどる、紫陽花のようないろをしたひとみも、宝石のように、見る角度で表情が変わる。ジャックという人物は、(まだ短期間しか接していないから断言はできないけれど)感受性ゆたかで、美を愛し、喜怒哀楽のうち、怒がすばらしく激しい。荒ぶる炎のように燃えるひとみに睨みつけられると、胸がくるしくなって、遊星は死にたくなる。
 寝息は存外しずかなようだ。少しだけ開かれたくちびるから、下の歯がのぞいている。よく寝ていることを確認して、おもむろに、人差し指を差し込んでみる。すこしかさかさしている。もう少し突っ込んで、歯を撫でる。さらりとした唾液がくちびるの内側を濡らした。紅を引いてやるように、くちびるに唾液をすべらせて、遊星は指を引き抜いた。朝日にかがやく濡れた指先をそっとこすりあわせながら、その濡れたくちびるに、おのれのその器官を重ね合わせた。ふたりのくちびるは湿度を共有し、触れただけで、すぐに離れた。……
 煮詰められた砂糖ははちみつのようないろになり、鍋のなかで絢爛さを見せつける。幾重にも折り重なって溶けあって、繊細に輝く。上がる湯気が頬を焼く。指先に魔法。集中してしばらくすると、時間の軸から自分の身が外れて、白く硬質な空間に取りこまれる。無心でいい。その指は、手は、人の夢を鋭敏に表現する。作業台から木べらが床に落ちた。
 なにかが聞こえた気がして瞼をひらくと、ジャックは白い天井を目にした。遮光カーテンを引いた部屋の中は薄暗く、暖房のせいで乾燥していた。しばらくなにも考えないでいたが、突然起き上がり、包まっていた布団を蹴りあげる。その拍子に、上に被せられていたスーツの上着がすべり落ち、床に伏した。
 すっかり硬くなった指の腹で先を撫ぜる。内側に巻いたのは葉となる部分だ。表面が少し固まってきた頃を見計らって、葉脈を掘る。ふたつの青い眼が1本1本の線に集中すると、だんだんと黒眼がぶれて、どこか錯乱している様を思わせる。身体の中にある雑念がぷつぷつと押し出され、やがて濃密な精神だけがそこに在る。
 タクシーに飛び乗り、腕時計で時刻を確認する。どれくらい眠っていたのだろう……幸い、二日酔いはない。バックミラーを拝借して手ぐしで髪を整え、スーツについた皺を叩いて伸ばす。携帯のランプが点滅している。首筋や輪郭も含めた肌がぞわりと粟立ち、そのまま焦燥感に駆られてボタンを押した。

 一点の曇りもない幸福の中で自分が消えてしまう。自意識が荒く削り取られていく。うつくしい夢虫が止まる。でたらめな時のなかで花が咲き誇る。
 駆け込んだコンテナで、おのれの眼は大輪の花を見た。つぼみがかぐわしく開き、いまにもくずおれそうに儚い、瑞々しい花。蔦が時間に絡みつき、思考を縛り付ける。……

(ジャック・アトラスが蝶だというのなら、不動遊星は花だろう。凛とした心には毒があるし、華やかな姿はだれも知らない秘密に満ちている。日陰で咲く花に引き寄せられた蝶は蜜を吸い、やがて風に吹かれ死にゆく。花の根で眠る蝶の安寧を祈り、そして共に散ることを誓おう。いのちの音を愛した花びらはいつでも煌びやかでうつくしい。)

end.


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