逆上堪能ケロイドミルク


 おぞましいほどに黒ずんだ手首の線をなぞって、見つめて。暗がりに浮かぶのはうたうように紡がれる呪詛のような名前と、限りなく自分勝手な妄執。胸を押し上げてくるくるしみはじわじわと魔の手を伸ばして、悲しみを嗅ぎつけた蛇のような動きであばら骨に巻きついた。うつくしく白い骨が、腐ったみたいに黒ずんでくる。心臓をまもる檻が脆く変形する。いかにも闇から生まれたという蛇が骨を食い荒らして、闇と皮いちまいで隔てられた中身にくずがぽろぽろとこぼれ、悪臭が立ち込める。
「あ゛……」
 自分で噛みちぎったらしい爪がそこら一帯に散らばっている。そんなものいまやなにも意味ももたない。廃棄場のプラスチックとおなじだ。おもむろに拾いあげて噛み砕く。付着してこびりついていた血が唾液とまざって溶けだし、くちのなかを赤く染めた。片方の(・・・)舌先にのる爪は段々とやわらかさを持ち、奥歯で噛むと、真っ二つに折り曲げられるようにまでなってしまった。
 くちゃくちゃと音をたてるようにしてちいさく折りたたみ、また床に吐きだす。明らかに常人のそれではない、血のかよっていないような、どちらかというと青みがかった色をした舌が、真っ赤な汁を滴らせている。食事を待ちきれない駄犬よろしく口の端を唾液で濡らしながら、こつんとつま先に当たったものに不安定な視線をうつした。
 西瓜のように重みのあるそれから伸びた取っ手を鷲掴みにし、目の前まで持ち上げる。見た目よりもずっと重かった。爪がなくなっても噛み続けたから、白い指先はすでに凝固した血で固まってしまっている。ほそい繊維がたくさん集まって出来た取っ手だ。暗い紺碧にさす向日葵色にずぶずぶと入り込んでいく指を止められない。
 切れ味のわるい刃物で切り離した切り口からはなにも滴らない。どす黒く変色してしまった赤のなか、うつくしく白い棒が1本のぞいている。すでになくしたその白さに、蝕まれてしまったあばら骨がずくずくと疼いた。秘め事をかたるような囁きに耳を奪われる。
「うー! いでえっ、いでえよおおお! ぅあ゛ーっ! あ゛ーっ! あ゛ーっ! あ゛ーっ!」
 持ち上げたそれを床に投げつけると、ごしゃっ……と、かたい果物を金槌で叩き割ったような音がした。腐ったあばらにまもられた肺をふるわせて、喉を裂く絶叫を放出する。
 わなわなと指先でかおを掻き毟ると、みち、と皮膚が剥がれる音が鼓膜を舐めた。日差しに当たらぬ病的な白い肌の下、ぎっちり、所せましとひしめき合う顔面の筋肉はすでに死んでいる。張りのないそれは簡単に指で撫でることが出来た。髪の生え際あたりに食い込ませた十指をそのまま下へ引っ張ると、生きていない皮膚が剥がれて指先に溜まる。鮮やかとは言い難い色をした肉が姿を見せる。きれいに、指が引っ掻いたとおりに剥がれた。
「ひひひひひ……ヒヒッ、きひひひ……」
 凝固した血液に映えるくすみを含んだ白い皮膚と、つれてきたどす赤い肉。チェシャ猫に似た笑みを顔中に浮かべると、皮膚が引っ張られてまた千切れて、今度は墨汁のような色をした血らしき腐った汁が飛び散った。右側(・・)の舌でそれを舐めとって、同時に先ほどどこかへ放り出したものを探す。
 すべてが闇に溶けていた。噛み捨てた爪も、腐ったあばらも、あの首も。
 床に這いつくばって手さぐりで見つけた。ずるずると引きずるときにするこの音は、ゾンビが這うときのそれとまったく変わらない。
 乾いた血で動かしにくい手で、その顔を撫でまわす。いとしさを含んだ親指でまぶたをゆっくりとさらい、それから頬、鼻、くちびるへと手をすべらせる。ひとつひとつを確かめるような手つきによどみはなく、それはどこかうつくしさすら感じさせた。引きつけを起こしたような喉が笑い声を出すと、また弾けて、黒っぽい汁が飛ぶ。返り血をあびたようにも見えるその姿が、思い出の彼にぜんぜん似つかわしくなかったから、笑いがこみあげ、また筋繊維が千切れる音が響いた。
 身に纏わりつく鬱陶しい衣服をすべて取り去ってしまう。闇で染めた服を引きちぎるようにして脱ぎ捨てると、肉付きのわるいからだが闇に浮かんだ。粉っぽいような、べとついているような、奇妙な白さの皮膚にくっきりと浮かび上がった骨格が痛々しい。骨盤もあばらも肩甲骨も尾てい骨も、忌々しいほどに目立ち、さらに白すぎるがゆえ、皮膚の下で死んでいる肉が透き通って見えるようであった。
 萎えた性器を扱いていると、脳みそに湧いた蛆がよろこんでいる声がきこえる。豆粒ほどもないひとつひとつが飛び跳ねて狂喜乱舞しているのだろう。ぱちぱちと爆ぜるような音は彼を焼いていく。真ん中にある、残り少ない塊を、すこしずつノミで削って、蒸発させるみたいに。
 いつのまにか勃起していた。はあーっ、はあーっと、温度もない息を吐きつらねて、眼球の裏にまで詰まった蛆がのたうちまわる音をきく。
 急いでいるかのような手つきに、先端が濡れはじめた。手にこびりついた血液が溶けて、まるで生理中のおんなとやったかのように、竿が真っ赤に染まっている。ちょうど経血に突っ込んだみたいな赤色だった。
 鈴口がいななき、白いものがほとばしる。すぐ目の前に置いたそれにひっかけた。
「はーっはーっ……ゆうせ……遊星……? んふふ……」
 湿った手を拭くこともせず、その首を持ち上げた。地黒の肌に、暗い赤色がべったりと塗られる。そのコントラストのうつくしさ。濁ったひとみがころんと回った。
 かすかに開かれたくちびるや、そのなか、落ちた舌根にまで白が及んでいる。よごしてはいけない気持ちが腹の底で起きあがったらしい。衝動のまま、彼は左右に裂いた舌を交互にくねらせながら、冷たいくちびるを舐めた。あいだに挟むようにして味わったあと、そのまま左右の舌をぴったりとくっつけて差し込み、薄くて青臭いそれを口腔内に塗りたくるようにかき回した。
 彼のくちのなかは生き物の味がしなかった。落ちこんだ舌根、渇いた上あご。それに、肉が腐ったようなひどい悪臭がした。そのくせビニールでも被せたマネキンのように、唾液ひとつ染み出してくる気配がない。生えそろっていただろう歯はまばらになっていて、歯茎からネジの先端が飛び出ているように、奇妙なかたちに研磨されたものもいくつかあった。あまりに人間離れしている。けれど、それでも彼は嫌がったり、面倒がったりしない。だっていとしいからだ。左右の舌がそれぞれ別の方向を舐めまわして、まるで砂漠だった口腔を湿らせてやった。騒いでいた脳みそが大人しくなる気がした。
 痛んだ肉の色をした、寝そべっている舌と、左右に裂けた、青みがかった爬虫類の舌。それをつなぐ銀とも白とも取れぬ糸はか細くおぼろげで、よわっちい。濁ったひとみ、洞窟みたいにぽっかりとあいたくちの奥を、いまさら見ることなど出来なかった。ぷつんと糸が千切れれば、そのまま意識を映写する機械のコードも切れて、最後はお決まりブラックアウト。闇に浮かぶのは呪詛のなまえと、すっかりこびり付いたつよい妄執。
「――遊星。ずうっ……と。一緒だ」