はじめて


 ポットのロックを解除して給湯ボタンを押すと、熱湯が出てくる。ビニールを剥がしかやくを入れたカップにそれを注いでいると、途端に湯の勢いがわるくなった。不思議におもい表面の湯残量を確認してみると、どうやら湯の残りがほとんどないようだ。いままでここで生活してきて(といってもまだ短いが)はじめての現象にぶつかり、ブルーノは画面に目を縫い付けている遊星の肩を、遠慮がちに叩いた。
「遊星……ちょっといいかな」
 異常なほどの集中力をほどいて、遊星がブルーノを振り返る。いまは夜中だし、他の同居人が寝ているため電気も消したままにしている。暗いなかのディスプレイばかりを見つめていた遊星の目は、すこしばかり見にくかった。
「……ああ。どうした」
「すまないね、邪魔をしてしまって」
「いや、いい。ちょうどキリのいいところにきたんだ」
「そうか、よかった」
「で、どうした? なにか食べたいものがあったら勝手に取ってくれて構わない」
「いや、頂いてるんだけど……ちょっと、お湯が。足りなくて」
 手に持っているカップラーメンと、パソコンデスクのすぐ隣を指差して、ポットの湯不足を訴える。
 遊星はああ、と椅子から立ち上がり、ポットのコンセントを抜いた。そして持ち上げて耳元で振り、なかで水が踊る音がしたのを確認して、「大丈夫だ、吸い上げれなくなっただけで、湯はまだある」、そう言ってポットの蓋をあけて、ブルーノを促した。すこし疑いながらブルーノはカップを差し出す。湯が跳ねてしまわないように、ゆっくりとポットを傾ける。遊星のいったとおり、充分なだけの湯がカップに注がれた。
「おお」
「これでいいか」
「うん、ありがとう。遊星」
 ブルーノは無邪気にわらって、遊星の隣の椅子にふかく腰掛ける。ディスプレイに出る時計で時間を確認する。すこし手間取ってしまったから、あと2分弱で大丈夫だろう。一連の調理が終わったのを見届けた遊星が口元をひんまげてわらった。
 遊星のわらいかたはちょっと特殊だ。目尻を下げるでもなく、ただそのちいさなくちの端っこをうえに引っ張り曲げるだけが、遊星なりの笑顔だ。彼自身はその誤解されやすい笑みを自覚出来ているのだろうか。でもべつに愛想を振りまく必要などないとおもっている。自分はもうすでに満ち足りている。
 ブルーノも遊星の笑みを理解出来る人間のひとりだ。このふたりは付き合いがまだ浅いけれど、はなしが合いすぎるゆえ、とてもふかい仲良しになってしまっている。
「遊星はおなかすかないのかい?」
「おれはまだいい。さっき摂った」
 ごみ箱を指差す。くちゃくちゃに搾りきった栄養ゼリーが、干からびた死体みたいになって転がっている。ブルーノは驚き思わず眉をあげて、同時にディスプレイの時間を確認する。もういいだろう。
「遊星……」
 途端に低くなった声にすこし怯んだ遊星が、ディスプレイに戻しかけていた視線をブルーノに移した。プラスチックのフォークで麺を取り、ふうふうと冷ましながら、上目遣いにこちらをするどい目で見ている。遊星はまた怯んだ。
「だめだろ、ちゃんと食べなくちゃ」
 舌を火傷しないようにきちんと冷ましてあげてから、フォークを遊星の口元に持っていく。遠慮しようとしたが、こういうときのブルーノはやけに強引であるため、引き下がってもらうことは不可能だとわかっている。エンジンの開発を共同でしているときだって、ブルーノはちょっと強引だけど、実力の伴う自己顕示だし、コンピュータでの作業においてそういうのははじめてだったので、遊星にとってはそれがちょっと喜ばしかったのだ。目の前のフォークにくちをあけ、ずるると啜ってみせる。熱くない麺に具がたくさん絡まって、一口でそのカップラーメンを堪能することができた。ブルーノが満足げにわらう。遊星は咀嚼しおえてから、「うまいな」、はじめてわかりやすい笑みを浮かべた。