冥府へとつづく扉


 親指で口腔内をかき回しながら扱いてみたが、どうにも感度がわるいらしい。伸びる唾液の糸をぷっつりと切り、ベッドから起き上がった。枕元に置かれたティッシュで指を拭い、中途半端に乱れた下半身をきちんとしても、おさまらぬ欲望をくすぶらせている。
 広いとはいえない、与えられた部屋の中心でひとりぽつんと、闇を見ている。虚空にたゆたう粒子を吸いこんで、破壊される脳がくり返す生前の映像を、他人事のように眺める。
(クズ犬! ゴミ! 人間様に楯突くとこうなるんだ、覚えておけ!)
 すこしずつ濁っていくひとみに流れたのは、歯がみしか出来ない悔しさと、両手と両膝に食い込む屈辱であったはずだ。それがいまとなってはどうだろう。皮膚をつねると笑いがこみあげるし、罵声を浴びせられるのを考えるだけで、興奮する。骨盤のあたりがぞわぞわして、下腹部にまごうことなき快感が走るのだ。
「あ~~ァァァ、おれぇえ、おかしくう、なってん、じゃっ、ねえ……のぉお……」
 無邪気にわらう子どものような笑顔がはじけている。裏のないさわやかさが閉じた目のまつ毛に触れた。瞼に映写されるおとこどもの下卑た笑みに見下されている。人間の尊厳すべてを掌握されすり潰され、鬼柳はすっかりオシャカになってしまった。
「でもうそじゃねーもん」
 情けない格好で性器をさわりながら、頬をシーツにすりつける。肌触りのわるい白のシーツは現実だ。けれど、からだの隅まで行き届いた人間様の教育は、目に見えないから、いまとなっては絵空事になってしまった。悲しいかな、反射並にまで自分の身に刷り込まれたそれは幻想でしかないのだ。
 「在る」ものなど目に入らぬ、「無い」ものに支配されてしまっている。色彩をなくしたひとみは、永遠に彼らの影を見る。
「無様だな……きさまほど無様なやつを見たのははじめてだ」
 ひらいたドアから侵入してきた声を厭わずにいられない。ひどく緩慢なしぐさで振り返る。
「その目はなにを見る?」
 ベッドに沈めていた仰向けの首を蜘蛛の糸が締めつけた。絹糸よりもほそく、鉄線よりも強靱な糸は筋張った首に巻きつき、ハリのない肌に食い込み、血に似た液体が染み出してくる。糸が黒く染まっていく。そのうち頸動脈がやぶれ、おそろしいほどの勢いで温度のない血が飛び出した。びしゃびしゃびしゃあ、シーツを黒く染める液体に沈みながら、死んだ……死んだ……死んだ……
「ヒャハハ、死んじまったよぉ! オッサン、いまのもっかいやってくれよ。すげーイイ」
 飛び起きた首の元気なこと。糸はゆるまり、主である蜘蛛が死人の肩をすべりおちた。おもむろに指をのばし、そのまた主にかえろうとした、ふくよかな腹部をつまみ上げ、鬼柳が舌のうえに乗せる。青みがかって色くそのわるい舌にその八ツ足をすべらせると、すごくくすぐったい。
「ほあ、くっひまうぜえ……いひひ」
 見せびらかすように舌をうねらせると、蜘蛛が飛び降りそうになったので、うえの歯で固定する。もがく八ツ足がさらにはげしくなる。
 奇抜なことをしていると、万物にたいする支配欲が満たされる気がした。憐れみをふくんだ視線は、鬼柳の自尊心を満足させる。それはずっと、むかしから思っていることだけれど。喉のおくが引き攣って出る笑い声には、鬼気迫り、魔を孕んだ威圧感があった。
「戯言を……」
 黒に染まった目をほそめると、蜘蛛のちいさな鋏角が、鬼柳の舌先に噛みついた。見る見るうちに青みは引き、かわりに、流し込まれた消化液で内側から組織が溶けて、ただれていく。カエルが地面に叩きつけられたような、みにくい声が響いた。つよい酸性の液で舌先がけむりをあげている。おもわず吐き出して、不揃いな爪で舌をつよくつまんだ。
 ここ最近、なににたいしても無関心でいる。また闇を見つめ、そうおもった。目をこらしてもなにも見えないのに、見えないから、鬼柳はいつも空中を眺めている。踏みつぶした蜘蛛の体液が飛び散る床だって、腐りおちた自分の舌先だって、心底どうでもいい。自暴自棄になっているわけではないが、気にするだけ無駄なのだ。
「何の用だ」
 くちに含んだ水が口端からこぼれるように、つめたいことばが床におちた。それは重力に逆らうことなく床石を舐め、ルドガーの足元に纏わりつく。
「用がないなら閉めやがれ」
「……」
 ずっととおくまで唸る、森厳な音をたててドアが閉じられた。かすかな光を部屋に招きいれていた、廊下の蝋燭が遮断される。見上げた天井の、そのうえに伸しかかる、想像することすら出来ぬ、気のとおくなるような地面のおもさに、塞ぎこんでいく自身を、静かに感じ取る。
 生まれ、死に、蘇った。そのあいだに感受したすべてのものごとに、呼応し、花開いた自分のこころのささくれを、ひとつずつ修復していくみたいに。外界の塩水にぜったいに影響されないことを望んでいる。隙のない心臓を完成させるために、鬼柳はずっと寝転がって死んできた。
「ふっふっふ……随分といい面構えになったものだ」
 つむじから降ってきたおどろおどろしい声に、無尽蔵の疎ましさが、鬼柳を中心にして渦をまいた。
「……オッサン、まだいたのか」
「来い。きさまに相応しいカードがある」
 隆々と凹凸をかたちづくる背を向け、ルドガーは廊下に片足を踏み出した。ほの暗い灯りが差し込み、鬼柳の頬に亀裂が走る。そのまま重々しい足音はつめたい床を踏みつらね、そのうちとおくなる。
 中途半端にひらかれたドアは、まるで地獄への門みたいだ。喉がしゃくりをあげて、おんなのような笑い声が漏れた。天井にむけて突き出したその舌先のいじわるなこと。体液から起き上がった新たなる八ツ足を踏まぬよう、そっと床に足をおき、おもいその鉄板を押した。断末魔のような音を背中でききながら、狂ってしまいそうなほどにとおい先へと、黒いろの靴先を合わせた。