涙の海で溺れる淡水魚


 こころに巣食うどす黒いけものを飼いならす方法は知っているか? また、脳みそを沸騰させるような激しい怒りの静め方は?
 操縦席のない自己を乗り回すことの出来る大きななにかを、こころの底で待ち望んでいる。把握されたい・塗りつぶされたい・手の中で転がされていたいといった、従支配欲がここにきて膨れ上がり、虚無を胸に注入されたみたいに、ひどく息苦しい。石を飲みこんだ喉では愛を囁くことも出来ない。閉塞の棺桶でおれは暮らしている。

 デュエルキング、ジャック・アトラスは、上空をつねに雲が渦巻いている下賤な孤島、サテライトの生まれだ。
 モラルもない、切れっ端しかない、失敗作の掃き溜めのような場所の空気が、彼の肌に染みこんで、くすみ、そのうち骨まで黒黒と腐って、細胞ひとつひとつから害悪になる。下劣で、あさましい、ごみ溜めのような場所で、ジャックだけがひとり見目麗しい。型くずれしていない。砂漠の流砂の中に潜む大粒の真珠のように、浮き出て、悪目立ちした。
 磨いたように艶やかな全身のうち、瞳だけが荒みきってぎらぎらと危なく光る。強盗の突きつけるナイフに似た不穏な眼光は、ただでさえ周囲の人々を遠ざけたが、勝利を手にしたときなどは、一層爛々とし、永遠に渇いて潤わぬ泉のようであった。また、海の向こうにあるネオンを映したときにだけ、瞳は色濃く変貌し、恋乙女のような感じがする。
 まるで水揚げされた魚である。ジャックがいるべきはここではない。それこそ向こう側の、とびきり熱狂的な、洗練された人目が集まるスタジアムだろう。ジャックは水を求めている。自分が自由に泳げるだけの、充分な広さをした水槽を……

 こころがふさがるのは一体どうしてだろう。
 世界中にある装飾品をすべて散りばめた煌びやかさ。うつくしく澄んだ夜に数えきれぬほどのネオンが、ゆるやかに流れる沢に晒される柳のように、なめらかな曲線を描いている。夜の色は群青の絵の具をシャンパンで薄めたような上品な青色をしていて、移動する様々な星は大方テールランプだろう。それが視界の限りどこまでも広がっていて、まさにこの世を統べたかとも思える絶景である。
 けれど、骨まで染み込んだ粗悪さが、それらによって浮き彫りにされてしまう。無知ゆえの思慮は、食い散らかされたテーブルの上のように、纏まることがなかった。ガラスに写る自分の姿は一体どうだ。犬歯をむき出しにして、まるで出荷前の家畜ではないか。海底を這いずっていた頃よりもずっと、自分が惨めであると感じる時間が長い。その憂鬱は、決して口にすることが出来ない。
 眼下の夜景すべてを収めるその瞳からは、元々の宝玉たる輝きはすっかり失せ、いまはただただほの暗い色に沈んでいる。離れる兆しのないくちびるは縫いつけられてしまったようでもある。無惨に引き裂かれたテーブルクロスに染み込んだ真紅と同じ赤のボトルを、手の中のグラスへと乱暴に傾ける。
「困りますねぇ、キング」
 割れたガラスを踏む音が、背後から迫ってくる。投げかけられた温和な声色に、気だるげに視線を寄越す。
「狭霧さんが怖がっていましたよ」
 虚構で出来たような仮面をつけて、絶対に真意を表さない。いつものかっちりとした服装をして、説教する気など一切ないかのような表情で、ジャックの三歩ほど後ろに足を揃えている。
 その思ってもないことを、次から次へと囁いてくる、蜜を滴らせるくちびるに、ジャックは甘えてしまう。渇いた砂漠に落とされる一粒の雫がいのちであるように、いまのジャックにとって、自分を肯定してくれるこの柔和な笑みと態度は、大切にしたいものだった。
「長官か……」
「どうなされました。このような暴挙はキングに相応しくありませんよ。まるで、野蛮なけもののよう……」
 レクスの口調はやわらかく、子守唄のように、淡い色でジャックを翻弄する。この声を聞いていると、どうも自分がわからなくなる。はて、おれはさっきまで怒っていたのだったか、それとも泣いていたのだったか、など、瞬きひとつする前の記憶が消し飛んで、その声と同じ、ペールトーン(具体的に色名を記すのであれば、美女桜やルピナスといった、淡い紫色であろう)のようになってしまう。ゆりかごに寝かしつけるがごとき語りに、ジャックの悩みは微睡んで、すっかり見えなくなってしまう。それでも、行き遅れた気分だけは、先の暗中を彷徨い続けることに、変わりはない。
 レクスは暫く思案している彼の姿を鑑賞するように眺めていたが、やがて機械のように彼に近づき、その手を取ると、テーブルクロスに引っかかる割れた爪に、目を閉じて口づけをした。音もたてぬ静かな挨拶のキスであった。それから促すように視線をやって、「さあ……教えたとおりにやってご覧なさい」と囁いた。歯の間から漏れる息が指先にかかってくすぐったい。
 ジャックはこれが大嫌いだったが、観念して、せめてもの反抗に手を乱暴に取り返し、それから大仰に床へ這いつくばり、レクスの靴の両脇へ手をつき、その靴先へキスをした。すぐに「よろしい」と声が降ってくる。声を聞いたジャックのプライドは、レクスの靴底に踏まれて既にぺらぺらである。
 すぐに背を向けた青年を、レクスは暫しいたぶるような視線で見つめる。唯一無二の珍獣が、いまや食事をする、いまや排泄をする、などと、一挙一動に反応し、見守るかのような視線である。ジャックはそれをガラス越しに見ながら、再びもくもくと沸き上がってきた駄目な気分を、ありありと感じている。この、疎外されて、居場所のない感じは、どうしたことだろう。数日デュエルをしないだけでこれだ。あの高揚感と切り離されてしまうと、どうにも自分は腐ってしまう。それでいても、正体を掴めぬやりきれなさは、八つ当たりするところがないから決まりが悪い。行き場のない激情を発散できないというのは、禁欲と同じくらいの苦しさがあった。
「気分が晴れないというのなら、なんでも与えて差し上げましょう。さあ、仰ってください。あなたが望むものを。包み隠すことなく」
 ああ……。この人の声は麻薬である。耳から入って、鼓膜が震えて、脳のどこかを通るついでに、快楽のツボでも掠っているのではないか。今しがたこの人から与えられた日常的な屈辱すら、もう消えて、頭の中が靄がかったようで、明瞭としない。歓声を浴び、カードを捲り、舌戦でもコテンパンにしているときには、決して起き上がってくることのない、薄い酸素の、死人にも近い思考である。
 これとは、まさに、水揚げされた魚ではないか。汚水で生きづらかった魚は、水質が合っていないのだと決めつけて、息苦しい中パイプラインを泳いでやってきたが、実際のところ、海水さえも不快な始末。ぱくぱくと口を開けた先に、優しい酸素が送り込まれる。そして、その魚が唯一生き生きとするのは、側面を人の目で塗りつぶした大きな大きな水槽の中であって、それ以外では、息も絶え絶えである。魚が溺れるというのは変な話だが、彼はいまにも溺死しそうである。
 例えば、自分のことを、色鮮やかな、虹色の鱗を持った大魚だと思って、二十年弱生きてきて、ふと、水面を見上げれば、小さく見窄らしい、目だけがぎょろぎょろした稚魚がいたとき。尾を振れば、同じ動きをする。エラを開けば、同じ動きをする。自分としか思えぬような雑魚がそこにいたら、どうするだろう。
「あ……ああ……あ……ああ…………おれは……おれは溺れかけている……」
「あなたがですか?」
「ずっと……、……息苦しいんだ」
「息苦しい? 気胸でもうってみられますか」
「……とぼけるな」
 わかっているくせに。肩をすくめ、我が子が辿々しく歩く姿を、眩しそうに見守っているときの顔をする。それでも、致し方ないので、ジャックの心臓が泣いている。目には見えぬ涙だ。どくどくと雫を垂らしている。指先に血液が回って疼き始める。
 お願いをしなければ。この人が相手を持ってこなければ、自分はただの木偶の坊だ。ジャックは日によって、そこまで落ち込んでしまうことがあった。

 翌日、その部屋には大きな水槽が置かれ、麗しい淡水魚が囲われた。同時に次の対戦予定を知らされ、ジャックは暗雲が晴れたように高らかに笑った。