メデューサの瞳生臭い。陽のひかりを全身に浴びてきたみたいな、自分とは程遠いにおいがする。暗転ののちに手に入れた動物並の聴覚は、とおくの足音でさえ拾った。低いヒールのくつが徐々にこちらに近づいてくるけれど、なぜだかどこから来るのかはわからなかった。 瞼からこぼれおちそうな闇をぎらりと輝かせ、視線をめぐらせた。広々とした部屋の中央に置かれた長いテーブルに組んでのせていた脚を崩して、立ち上がる。常人であれば血走っているであろうその必死な眼に、ひとりの人影がうつった。過敏に反応してみせる。 清潔感のある白色のロングスカートが、優雅にゆれている。呪い殺さんとする禍々しい視線をその身に受けてたじろぐかとおもえば、おんなはその柳眉を下げ、真っ白に透き通るひとみを細めた。 「あらカーリー、目覚めていたのね」 そのひとみはうすい涙の膜を張り、透明のガラスを幾重にもかさねたような、すこし青みがかった透明さをもっていた。上手を持っていかれたような、敗北感。同時に背筋に湧いたのは、得体のしれない人間への恐怖、そして認めがたき安心だった。動脈をふさぐ血栓が安心感であたたまるけれど、虚勢をはりつめて睨みつける。 「だれ、あんた。よそ者は帰りなさいよ!」 「ふふ、随分元気になったのね。よかった」 あくまで柔和な笑みを歩調にあわせながら、ミスティはヒールの音を響かせた。あまりにも人間味にあふれすぎているその動作に、全身のうぶ毛が一気に逆立つ。生前であればやかましいほど心臓が暴れているだろうに、カーリーは早鐘をうたない自分のかわいそうな心臓を呪った。冷たいからだに劣等感が生まれ、それは極寒の地にさらしたように、全身の筋肉をかたくさせる。 目の前のおんなは穏やかな生気のヴェールを身にまとい、ハリのある肌、たしかに息づく腹部を持っている。たしかに、生前ならば自分だって持っていたものだ。ほんとうは、ずっと先まで、自分も持ち得ていたもの。けれど現状は冷酷だ。「生前」なんてことばを、使うだなんて。 すぐ目の前まで来た脈々とした生命、鼻が拒否している日向のにおいに、うしろめたい気持ちでいっぱいになった。死んでいる自分が恥ずかしく、忌々しい。虚勢の皮がばらばらとはがれおちた。 「……」 「どうしたの? ……ああ、そういうこと」 ミスティの指先が項垂れたうなじに触れた途端、足元におちていた視線が、一瞬だけ途切れた。自分というからだの電源をおとされたように、ほんの一瞬だけ暗転した。そしてすぐに感じる、解放感。この薄暗い部屋に巣食う悪魔が、劣等感だけを吸い取ってくれたみたいに、鬱々とした後ろめたさが消えていた。あばら骨のなかで心臓が浮いている。 「これで平気になった?」 目の前のおんながさっきとかわらない、にこやかな笑みを見せた。そのなだらかにカーブをえがく眉、きれいに伸びたながいまつ毛、すべておなじだった。 「え? え? さっきの……」 「ごめんなさいね、驚かせてしまって。うっかりしていたの」 こまったようにゆがめた頬に浮かぶ、どす赤いしるしと、なにより特徴的なそのひとみ。透き通っていた白など見る影もなく、そこには奥の見えない闇色がふたつ、はまっているだけだった。脈打ついのちの行方。死人の自分が圧される、日向色をした覇気がつながる場所。 呆然として、かたまったように動かなかった手を取られ、そのまま胸まで持っていかれる。服のうえからでもわかるほどやわらかで沈みこみそうなそこに、冷たい手のひらをぴったりと触れさせられた。じっと目を見つめられている。数秒。そして、あるはずのものがないことに気付き、喉を引き攣らせた。 「わたしはミスティ。あなたとおんなじ人間よ」 よく手入れされたつややかな肌、ピンクベージュのグロスが映えるくちびるからのぞく真っ白な歯。ちがうのはただ、沈黙した心臓だけ。逸脱した存在なのだと教えてくれる。おなじ人種なのだと。 「あ、あ、あ……」 「こわがらないで。わたしたち、仲間なの」 整えられた爪で肌を撫でる。語りかけるような声色はカーリーを取り巻き、しばりつけ、そこから動けなくさせた。やさしさと慈愛に満ち溢れた軌跡で輪郭をふちどる。 「かわいそうなカーリー、よく聞いて。あなたの運命は潰えてしまったの。いとしい人は陽のあたるあたたかい場所で、あなたの知らないおんなとお手手つないで、なかよしこよし。あなたのことなんて、すぐに忘れちゃうにちがいないわ。あなたに触れたきれいな指も、あなたを呼んだ薄い舌も、あなたが焦がれた伸びた背筋も、いまとなってはちがうおんなで塗りつぶされてしまうのよ。ふふ、哀れでみじめなカーリー……」 優美なくちびるから、ナイフよりも残酷なことばが吐き出される。薄闇のなかでもかすかな光を帯びて鈍くかがやくそれは、カーリーの胸をするどくえぐり、肉をこそげた。血が噴き出す。か細い血管がやぶれて、墨汁にちかい黒さの血が浮かび、取り巻いた。 カーリーの視界はすでに死んだ血で塗りつぶされて、もうまともなものはなにも見えなかった。 手を伸ばしたら、爪が触れるくらいの距離に、彼がいる。純白の背中に痕をつけるように、引っ掻いて傷つけたり、脈打つ心臓を取り出して、永遠の闇に閉じ込めたりしたい。彼につながるすべてを断ち切り、ただひとつ伸びる糸を、自分にむすび、彼自身で赤く染めたい。 恍惚としたひとみで、ミスティを見つめた。ゆめを見るその闇色がふるえる。 「すてき、すてきなことになったわ。ミスティ!」 「そう。あなたの愛はいま固まったのね。よかったわ、カーリー、あなたがすべきこと、見つかって」 黒にまみれた部屋で、白いふたつの首はまるで亡霊のように浮かんでいる。流動した空気が髪を撫でた。ざわめいた髪が蛇のようにうねる。闇に魅入られた死人は手を取り合い、顔を寄せてささやいた。「制裁を、制裁を……」 暗がりにただよう怨恨が固まった。そのひとみはいまだ、ぎらついたまま。 ← |