マゾヒスティックに恋をするながくつづく廊下の両側、足元に設置されている、人の気配を察知して灯りがつくライトなんかじゃあ、深夜の治安維持局にうすく膜をはる不気味さは、拭えやしなかった。リノリウムをぼうっと縁どる灯りはおぼろげで、その不確かさは現実離れしたほの暗さをたたえている。 支給されているブーツの底のかかとが、ごつ、ごつ、と、くぐもった音で床を蹴る。悪鬼を狩る正義のDホイールをあやつる者のあゆみによどみなどあるはずはなく、あるき慣れたかたい床はまっすぐな足跡をかおに残した。割れたガラスのうえだって問題なくあるけるよう、何重にも重ねられたソールを擦り減らせて、彼らは暴徒を追いかけ、お縄につかせるのだ。 政府の狗だとか。意思をもたぬ、言いなりになるのが大好きなマゾだとか。うすぎたない舌が投げてくることばを、背中で受け止めて、すべて払いおとしてきた。 「はあ~あ……おれだって、好きでああいうこと、してるんじゃねえよ」 牛尾のため息はがらんどうの廊下におちた。背中をまるめると、途端に哀愁が増して、なんだか捨て犬の面影がかさなる。 WRGPがはじまってからというもの、暇があればコースへと狩りだされ、そこらでひっきりなしに起こる、面倒なトラブルに対処させられる。Dホイーラーは、基本的に短気だ。そりゃあ例外だっているけれど、くちよりさきに手がでるというか、セキュリティの到着を待ち切れず、事故をおこしているにもかかわらず、腕っ節で決着をつけようとするし、なにより大変なのは、ランナーズ・ハイならぬライディング・ハイというか、ひどい興奮状態におちいったDホイーラーをなだめることだった。へたすると責任をなすりつけて逃げてしまわれたりもするし、通行止めにしなければいけないので、必然的に道は渋滞し、それに苛立つ市民の視線の痛さ…… 「はああ」 首をしめつけるスカーフは、セキュリティのあかしだ。牛尾の誇りともいえる。アンチ・セキュリティの連中には首輪呼ばわりされるそれを、牛尾はたいせつにおもっているし、個人的に、なんだか高貴な紳士になれる気がする。 体格のいい牛尾は、もちろん首だってふといから、ワイシャツを着るときすら胸元のボタンはしめないし、ネクタイも渋々だけれど、お決まりみどりのライディングスーツをきるときだけは、ぜったいに巻くとこころに決めている。 自分の容姿がうるわしくないことなんて、何年もまえから承知のことだ。似合わないと知っていても、けれど、これだけはゆずれないポリシー。 (あいつは、えらく似合うがなぁ) ふとよぎった同僚のさわやかな笑顔にくらくらした。不満をいわず愚痴をもらさず失態をおかさず、場の空気を大切にし、正義のこころをひとみに燃やした、あの同僚。ひとつ笑みをこぼせばそこ一帯に咲くきいろい声に、何度も耳をふさいできた。おんなの声はたばねるとやかましい。 (たしかに顔は、いわゆるイケメンってやつか。だがあいつにおんなの影がちらついたことなんか、ねえなぁ、風俗にいってる様子もねえし、あいつ……?) 「よ」 「ウオオッ!? な、て、てめー! びっくりさせるんじゃねえ!!」 闇夜からあらわれた同僚に心臓を浮かせた。まるで脳内から飛び出してきた幻影みたいだ。 「なんだよ、そんなに驚くことないだろ」 それは実にプライベートな笑みだった。ふだんから笑みを絶やさない風馬ではあるが、纏ういろのちがいはとてもわずかだし、それに嫌味くさくない。表裏のない青年が、ただその日の気分でかわる表情をかくしもしないように、至極さわやかな一線を引いている。 白というよりむしろ青みがかった、漂白したように白くかがやく歯が、牛尾を見ていた。 「それともなんだ? まさか、暗いのがこわいとかか?」 「バッ、んなわけねえだろ!」 ふたりの横顔を照らす夜景はきらびやかで、恋人たちのささやきが渦巻いていそう。風馬はどこか気障なきらいがあるから、余計にそのかがやきが映えて、牛尾はおもわず嫉妬してしまう。見向きもしてくれないあの人は、風馬だったら…… 「ああくそ、やなこと思い出しちまった」 「どうした、また深影さんにふられたのか? おれが慰めてやろうか」 「きいてくれよ! 深影さん、最近、毎晩夜勤みたいでよ……からだをこわさねえといいんだが……クッ、好きな人のちからになれねえなんて、自分が情けねえ……!」 「深影さんだろ? 今日はジャックとごはんっていってたぜ」 しぼりだした声を一刀両断した残忍な声のいろは風を切るようにするどく、牛尾のささやかな恋の皿を叩き割った。おもわず崩れた膝が床を打ち、骨太の膝の皿がにぶい音をたてる。風馬はまるで何事もなかったかのようにけろっとしていて、恋のショックなど知る由もないひとみで牛尾を見下ろしている。 「なんだ、知らなかったのか」 うなだれている。スカーフに荒い息がかかった。薄黄色の、デュエルチェイサーズの誇りを具現化したスカーフ。失恋の息吹がもし目にみえるのなら、きっと、この夜景の大半をしめる暗色に色づいているのだろう。風馬にはあまり縁のない息のはずだ。 「まあおれも深影さんから直接きいたわけじゃないぜ。ジャックとたまたま会ってきいただけだ」 「てめえは! ……うっ……くそおお~~」 ああ今頃あの人も、この夜景を見ているのだろうか。ひとみに涙がにじむと、夜景をかたちづくるひとつひとつの光が分裂し動いて、さらに絢爛になる。しろいテーブルクロス、華奢な指、ワイングラスにゆらめく赤ワインにうつる笑顔の眼にはまった端正なかおの輩があたまに思い描く…… 「恋ってくるしいもんだよなぁ、わかるぜ」 味のなくなったガムを吐き捨てるような言い方だった。ごく自然、当り前のことなのに、風馬がいうとなんだか気障で、乙女の頬はそまりそうだし、説得力があった。いつのまにかたばこを取り出して、火をつけている。館内は禁煙だというのに、監視カメラにうつっていたらどうするつもりだろう。たずねると、この廊下は死角がおおいとだけ答えがかえってきた。 「マゾの所業だよ。恋ってやつは」 くゆらせた煙が空中をおよいでいる。とおくまで追いかけても、そのうち消えてしまう。夜景をくもらせる紫煙はふたりを取り囲んだまま、にがいかおりをのこす。 「おまえも……わかるのか……」 「いくつだとおもってんだよ。そりゃあこれだけ生きてきたら、恋の苦味だって何度か舐めたぜ」 「か……風馬ァ!!」 すがりついた制服のさわりごこちは、自分のものとおなじであるはずなのに、年季のちがいか、幾分か自分のものよりはかたく、当り前だけれどたばこくさかった。 ふかしたけむりと、一途なひとみが追いかける人の行方は、風馬がいちばん知りたがっている。一喜一憂し上下する眉にはあまいくちづけを。舌にのこる苦味を舐めまわして、そのブラックな後味をたのしめるほどにはマゾのケがある。心配ない、こうやってたまに触れあえるだけの、そのじれったさが、いまはまだ心地いいのさ。 ← |