ジャックのハートが出てこない


▼attention!
 ・遊星がジャックを殺して食うカニバリズムのお話です。苦手な方は閲読をご遠慮ください














 ――……遊星はわき目もふらず、拳大ほどの柘榴に齧りついていた。その様子は飢餓を極めた野良犬といった感じで、まさに無我夢中、汚らしく、かわいそうで、哀れで、それでもどこか羨ましく思わせる必死さがあった。手づかみで歯に押し付けるようにして食うものだから、果汁が手の平に溢れ、手首を伝って肘から雫となって落ちる。
 立ったまま食事をしていた遊星であったが、その雫に気づき、腕を伝う果汁すらもったいないと、肘から手首まで、不気味に長い舌でなぞるように舐め、大きく喉を上下させて飲んだ。吐きそうなほど濃厚なそれだ。胃のあたりまで尚も存在感がある、遊星の大好きな赤い果実。果肉は歯の間で弾けるようにして潰れ、そのたび口腔が喜ぶように波打つ。やがてすべて食べてしまうと、まだ濡れている手を犬のように舐め、地肌が見えてくると、事切れたようにぷっつりと意識をなくしてしまった……


***


 鮮血とはなんと美味なものだろう。遊星は舌舐めずりをして喉を大きく上下させた。深々と突き刺さった出刃包丁の、肉との境目が、朱色に染まって、体内が映し出されるようだ。それにうっとりと目を細め、裂かれた傷口の周りを指先で撫でる。痙攣するように肉が動き、赤い血液が我慢できぬといった風に少しずつ漏れ出してくる。いけないと思って、咄嗟に突き出した舌で、それを掬ったが、包丁の刃にも舌を当ててしまったらしく、舌がぴりぴりと痛んだ。
 遊星の口腔がジャックの甘い血液と自身の血液で満たされ、芳醇な果実の切り口のように濡れて瑞瑞しく照った。本棚に収まった書物のように生え揃った白い歯を剥くと、朱色にむらができて染まっていた。
 傷口を歯で扱くたびぴりぴりと痛みが走ったが、止められなかった。
 吸いだすと出血のせいで唾液が湧き、それを口腔に塗りたくって、そのうち馴染んで消えてしまう。舌の切れ目からはどのような肉が覗くのだろう。そして、美しい人の体内とは、どのように出来ているのだろう。
 話は数時間前、遊星が仮眠から目覚める頃まで遡る。
 そのとき遊星は、なにか予知夢のような、目を開いた瞬間に全身がかすかに震えているような、淡い実感があった。強い疲労感と、ストレスによって痛めた胃から、酸いにおいが口腔に立ち上ってくる。粘ついた唾液が喉の奥を嫌がって溜まっていた。油でうがいをしたようにぶよぶよと濡れた口内を舌で舐める。しかしなにも思い出せない。夢魔に捕らわれたそれらのかけらが戻ることは決してない。残尿感に似たやりきれなさが遊星の内側をざらざらと触った。
 バラックに取り付けてある水道を捻って、くすんだコップに水を注ぎ、一気に喉を通らせた。抵抗を押し切って無理やり流し込んだせいか、喉がキュウと痛んだ。
 喉の奥を洗うように音を立ててうがいをして、吐き出すと、シンクの水垢が濡れて、一瞬消えたかのようになった。
 コップを置き、ふと振り向くと、ソファでジャックが死んでいた。全身が電撃を喰らったかのように痺れ、目が熱を持った。不謹慎ながら、動揺よりも前に感動の方が強く遊星の脳みそを揺さぶった。血の気のない相貌、開かれることのない瞼は微かに痩せ、近寄りがたさに思わず後ずさりをすると、運命のように突き刺さった刃物は、わざとらしいまでに遊星の目に飛び込んできた。
 それから話は冒頭に戻る。
 白い胸は生気がなく、耳を当ててもなにも聞こえない。顔に飛んだ血がなければ、病気で寝こんでいる風にも見えた。けれど遊星が執拗に触るその肉体が起き上がることはないし、全身の血液が巡ることもない。心臓の音がすることも、その瞼を開いて遊星の名を呼ぶことも、もちろんない。うぶ毛が裸電球の下できらきらと輝いた。ソファから血が伝って床に落ちる。
 広い胸を手の平で撫でると、遊星はすぐにうす汚い欲求が沸き上がってくるのが理解できた。粘着質な愛情が下卑た食欲になって現れる。そういう自分は浅ましい最たる存在だと唾液を飲み込みながら、包丁の柄を握る。腐った木の感触が軋んで伝わり、赤い刃はぬらりと照った。
 あばら骨の間を滑らせるようにして刃を入れ、四角く区切り、骨より上層にある肉を切り取り、腹の上に並べる。比較的白い軍手に臙脂色が滲み、痛々しい見た目に反しててきぱきと澱みなく動く。真珠色の脂肪がつやつやと照りを帯びて、魚屋の切り身のように、皮膚の上へ乗っかっている様子は、非日常的で倒錯していた。刃を骨に当てて滑らせると、何度も引っかかって、その度に遊星は熱くにおう息を吐いた。
 そぎ落としが終わったあとは、包丁を下腹部に突き立てる。それも無意識のうち、映画館で肘置きに肘を置くのとほとんど変わらない。もしこれが生きていた肉体ならば、遊星は喜んで服を脱がせて舐めしゃぶっただろう。けれど死んでいる肉体を目の前にしている限り、遊星の意識はそんなところには向かわない。
 板挟みだけがかれを夢中にさせる快楽である。短絡的思考は悲劇の虜になり、失意は愛撫の爪先に姿を変える。底知れぬ悲しみが胸の内に満ちるたび、なんだか溺死体の気持ちになって、からだ中が藍色のインクで染められる。舌先まで滴垂る雨で濡らされたら、自分が健常者だって、どうやって証明することができるだろう?
 白い骨を露出させたジャックは淫らだ。そんな……はしたない。これではいけない……
 これに包丁では心もとないと思い至り、遊星の目はじめっとした部屋を見渡した。くすんだ緑色のボロ布をめくると、古ぼけたチェンソーがそこにあった。
 補助スプリングのないスターターを勢いよく乱暴に引き、エンジンの音がメトロに響く。遠い長いトンネルを荒々しい呻りが走った。躾のなっていない猛犬に首輪を引っ張られるような振動を感じながら、危なく回る刃を骨にかざす。慎重にシミュレーションするが、何度想像しても骨だけに留まらず、腐りかけの肉までぐちゃぐちゃにしてしまう。やむなく断念して弓鋸を使うことにしたが、すでに遊星の頭の中は肉のいろでいっぱいになってしまっていて、煩悶の表情を浮かべながら、何度も何度も冒涜しては我慢しきれずかき混ぜた。
 あばら骨は心臓を守るため緩やかにカーブを描き、まるで手の指のように優しく覆っている。それを数本切断し取り除いてしまうと、腐ったイチゴの爛れた肉が温度を失ってのさばっている。遊星の目が大きく開かれる。青い瞳に蕩けそうな肉だけが一面に広がる。
「……!」
 躍起になって軍手を外して素手でかき分けたが、そこだけがぽっかりと空洞で、あるべきはずの核がない。ただ濃い赤が冷たい血溜まりをつくっているだけで、管はいくつか目に見えるが、肝心のものが野犬に食われたようにないのだ。遊星の心臓が大きく音を立て、その音は体内を反響して耳にまで届いた。
 横たわるのは白い塑像である。削っても、藁、藁、藁。
(おれには)
(おれにはあるのに?)
 もどかしそうに肌を掻き毟って、床でのた打ち回る。頭を何度も打ちつけて、血が滲み、こんなに砂まみれになっても、おれには心臓がきちんとある。それなのに、清潔なジャックの胸が、空だって、そんな道理があってたまるものか。遊星の眉が悲痛に歪み、毒を盛られたかのような呻きが歯の間から這い出した。
 よろよろと手を伸ばして、墓標のように刺さった出刃包丁を引きぬき、そのまま刃を自分に向ける。抉るように引っ掻いて、一心不乱にかき乱す。それでも皮の厚い指先が実に出会うことはない。
(ない……)
 なにもない。