マーマレードボーイズ


 目には見えないくせにそれだけでどうとでもなるんだから言葉って不思議さ。例えば声色とか目線とか、そういう付加要素を付けるだけで、表現できないことなんてたぶんない。けれど一度自覚すると、それを察知したかのように自分のもとを離れていって、外気と同じ温度の息だけが喉にへばりつく。
 そういう喋れなくなる夢を見た。
「……」
 人間でまだ淀んでいない、張り詰めた朝の空気が、肺を通りすぎて内臓まで達して冷たい。一枚多めに服を着込んで、ジャケットのジッパーを首まで上げる。素手で触れた金属の冷たさに目が覚める心地がして、そのとき、やっとトースターの音が鳴った。高い窓に差し掛かる太陽を見る。今日は寝すぎた。早めに出なければいけない、とバターナイフを手渡しながら、クロウはくちを大きく開けてひとかじりした。
「おいっクロウ! きさま、そのジャムがいくらすると」
「あーん? 誰の金で買ってると思ってんだよっ」
「そういうことではない!! それは紅茶にいれる用に、おれがわざわざ隠しておいたものだぞ……」
「だーかーら。おれが稼いだ金で買ってんだから、おれがどう使おうと勝手じゃねえか。大体なァ、ジャムはトーストに塗ってナンボだろーが! そんなに言うんだったら、てめーのトーストはマーガリンだけにしとけ」
「そ、それは断る」
 フン、と勝ち誇ったように鳴らす鼻は、ツンと上を向いてかわいらしい。片手にマーマレードをたっぷりと塗ったトーストを持ち、もう片方の手に白いカップを持つ。口の端にパンくずをつけたままコーヒーを喉に通すと、ああ、幾分か気分がいい。ジャックが家でいれるコーヒーはいつもうまい。ゆっくり味わえないのが残念だと思いながら未練もなく一気に呷る。
 手早く、急かされているように朝食を詰め込んだクロウを横に見て、ジャックは優雅にカップを傾ける。薄桃に色づいたくちびるはふっくらとして、カップを柔らかく受け止める。朝食前にリップを塗らないのは常識だ、薫香を損ねるわけにはいかない。それに、カップに膏のべったりとした跡が残るのはなにか俗な感じがして気に入らない。それからきつね色のトーストにマーガリンを伸ばし、固く閉められた小さなマーマレードの瓶を捻る。真珠に似たきめ細やかな肌に、筋と青緑いろの血管が浮かび、ガパッという音とともに、勢いあまって蓋が転げた。
「あ」
 遊星とブルーノはいまやっと寝にいったところだ。ふたりきりの空間に、ジャックの低い声がぼやける。
 すでに配達の準備を万全に終え、ヘルメットを被ったクロウの足元に、金色の瓶の蓋が倒れこむ。カランカランカラン……金属と石が軽い音をたてる。
 裏側についた薄いマーマレード。糸を張り巡らせたようなガレージの温度、日差しを溶かして煮詰めたようなその色、途端、クロウの胸がくるしくなる。記憶の端に残る夢の残骸が顔を覗かせる。いつも気丈に振る舞っている分、時たま来る感傷的な波が心臓を引っ掻いて痛い。取りにいくタイミングを逃したまま、ジャックの髪が朝日を受けてきらきら光る。きれいな、太陽のいろだ。片手に握りしめられた中身がゆっくりと傾いて、流動する。
「クロウ。……」
 ジャックの声は紫いろだ。瞳と同じ、かぐわしく咲く一輪の菫いろ。じんわりと空気に広がって、それがクロウの頭に降ってくる。縛る糸を無遠慮に切り裂いて、やっと身動きがとれる。なんだってよくもわからぬ気持ちに揺さぶられているのか、クロウにもよくわからない。拾い上げて、ヘルメットの側面にあるボタンを押す。オレンジのアイガードが降りてきて、視界を染める。誤魔化すようにわざとらしく口端をつり上げる。光が反射して読めぬ表情。
「……ほんと、手がかかんなあ。そろそろ出るから、戸締りくらいはちゃんとしろよな」
 おざなりに投げた金の蓋がジャックの手に届くまで、チカチカと何度も太陽を反射して眩しい。ジャックがそれを手に収めたとき、クロウは向こうを向いていた。

 甘い恋はミルクチョコレートの味がする。遂げられなかった想いはビターチョコ。手作りお菓子は特別な味。ふらっと買い物に出てふらっと帰ってくる間に、ブルーノの腕は可愛いラッピングでいっぱいになっていた。
「ブルーノ、大丈夫か」
「ああ、ありがとう~遊星。ただいま。外、すごい寒いよ」
 頬と鼻の頭を赤くしながら、ブルーノはひとつひとつテーブルにチョコレートを置いていく。腕に提げたエコバッグの中身よりもずっと多いそれに、遊星は目を瞬かせる。ビー玉のようにまるい黒目がきれいに透き通る。
「遊星に渡してほしいっていうのも、たくさん貰ったよ。ジャックにも、クロウにもね。男の人もくれたりしてびっくりしたよ~。ところで、ジャックはどうしたの? 姿が見えないけど」
「ジャックなら……朝から台所にこもりきりで、離れないんだ」
「台所! へえ、珍しいこともあるもんだね。ジャックが料理なんて」
 声は下から上へ昇る。くしゃくしゃに丸められたアルミホイルがすぐに飛んできて、ブルーノと遊星は、目を合わせてわらった。
「今日は出前でも取ろうか」
「ああ。まだしばらく空きそうにないからな」
 虹色のセロファンで包まれたココアマフィンが、山の上から転げ落ちた。
 ジャックは本の中にあるそれを見ながら、朝から脇目もふらずずっと格闘している。英字の書かれたマフィンカップがいくつ犠牲になったのか、数えることもしないまま、量ってはくしゃみをし、混ぜては零し、入れては垂れさせ、エプロンを真白のキャンバスのように汚しながら、ひたすらゴムベラを振り回す。書いている文面が理解しきれないのもあるが、ジャックの理解しうる範囲はきちんとその通りにしているのに、どうしてかうまくいかない。
「くそ……なぜだ。なぜ膨らまん」
 オーブンの中をじっと見つめるジャックのまつ毛に、薄力粉がうっすらと乗っている。地肌の、ホットミルクのような白さも相まって、薄化粧をしたように見えるその面貌は、沈黙しているマフィンに念をかけるように気難しく歪んでいる。
「ベーキングパウダーもすりきりで入れたぞ……」
 小さじに山盛り入れた結果マフィンが爆発したのを思い返す。その際にすこし焦げた毛先を忌々しそうに見つめる。遊星が飛んできて、どうしたと聞いてくれたが、ついぶっきらぼうになってしまった。だが頼るわけにはいかなかった。
「……」
「……」
 ソファから頭だけ出してこちらを伺うふたりの影に気づくことなく、ジャックは長い足を折って天板に乗せたカップを観察している。ずっとそのことだけを考えているわけではないが、例えば、出来上がったらどの紅茶と一緒に飲むか、や、次のページに載っているマカロンが食べてみたい、など、ジャックの頭には思考を散らばらせる要素がたくさんある。思案するときに伏せる眼差しは、溶けたチョコレートのように甘くて密だ。
「(なにしてるんだろうね)」
「(菓子作りか? あげる相手がいるのか……)」
「(遊星かクロウじゃない?)」
「(だったら嬉しいんだが)」
「しまった!!」
 肝心のマーマレードを入れるのを忘れている! 仕上げに乗せる分をよけてから油断していた……また失敗だ。立ち上がり、荒れたテーブルの上をまとめてゴミ箱に落として、薄力粉をボウルにふるい入れ、ふと手を伸ばして瓶を持ち上げる。中身のなくなった底から蓋の裏が見える。元々小さい瓶だったこともあるが、いままでの失敗作ですべて消費してしまったらしい。飾る分はあるとしても、付けるだけならわざわざこんな形で作ろうなどとは思わないし……。疲労がどっと肩にのしかかった気がした。
 そのとき、低く唸るエンジン音がガレージからキッチンまで上ってきた。「クロウだ」ブルーノがそう呟いた。
 擦り切れたブーツのソールが階段をカンカンと上がる。ジャケットの前をくつろげながら3人のいる階まで来たクロウは、誰に言うでもなく「帰ったぞー」と言葉を落として、それからジャックと相対した。ごちゃついた空間なのに生気がなくて、そこは新築のモデルルームのようによそよそしかった。数秒の後、白けたように薄っぺらい表情をして通り過ぎ、冷蔵庫から麦茶の入った冷水筒を出してグラスに注ぐ。一連の動作をジャックの慣れた目は疑うようにじっと見ていたが、不自然に膨らんだポケットと、その中身の重みのせいで片方だけ引っ張られているジャケットの裾に、いつの間にか注意を奪われた。
「……」
 町内の粗品で貰ったグラスにくちを付けながら、クロウが引きずるように足を進める。グラスの胴ではなく縁を指先で持って呷るため、顔がうまく見えない。普段と違う場所に移動したゴミ箱と、それの中身と、荒れていたけど瞬きする間に片付けてみせましたというような雑な汚れ方をしたテーブルを一瞥してから、蛍光灯を反射して目立つ金の蓋を見た。広く粉っぽい机上でその小奇麗なサイズが浮き出て光る。手に持って透かしてみせた。
「もうねえけど」
「ああ……使ってやったんだ」
「紅茶か?」
「いや、別でだ」
 ふーん……と気のない返事をして、空になったグラスをシンクに置く。同様にジャムの小瓶も水道の隣に置き、「分別する前に洗わなきゃいけねえから、一緒に捨てんなよ」「それくらい知っている」決まっていたかのように台詞が噛みあった。オーブンがジジジと音を立てる。ふたりはシンクの前、近距離で向き合い、一呼吸をともにした。クロウの視線が下がり、ジャックの手元にある本へ移動する。
「それ、作ってんのか?」
「……。ああ。……だが、残念ながらジャムが足りなくなってなあ。おそらく、誰かが朝にしこたま使ったせいだろう」
 意地っ張りがジャックの言葉を遠回りにさせる。刺を生やして、歪曲させて、けれどいくら悪意のある言い方でも、それに合う思考回路の「型」というのはあって、クロウはそれを持ち合わせている。真意をわかってあげられる。
 ポケットに手を突っ込んで、こぶし大の瓶を取り出す。ジャックの目が大きく見開かれて、瞬間に息が色めき立った。甘いかおりがオーブンから漏れ出して、ふたりの鼻に直接届く。取り巻いて逃さない。
「いらねえなら紅茶にでもいれりゃいいから」
 白い手のひらで受け取ったその重み、外気で冷えた瓶の冷たさ、灰色の瞳が嵌った横顔の大人びた感じ……ジャックがそれらを忘れることはきっとないだろう。写真に撮ったように、全部が全部噛みあって、ひとつの作品に仕上げられる。
「……おまえ、おれがいねえとなーんも出来ねえのな」
 知らないふりは得意なくせに、不自由な言葉の使い方をして。笑顔だけはくしゃりと曲がって、魔力を持ったその響き。すてきさ。
 おまえを幸せにしたい。