もうじゅう


 水を注いだグラスのなか、気泡がこびりついているように、自分のこころにも空間が存在している。
 それは微細で、自虐的で、遥かとおく、ひとつ壁をへだてたところにある。滝に手を突っ込むきもちで、異次元をまさぐろうとも、指先をかすめることすら許してくれない。広い大空のなかに浮かぶ雲のかけらをつかむようなもので、それは、魔法でもつかわない限り、到底不可能なことにおもえた。

 通りすがりにかおに当たる煙草のけむりを手で払いのけながら、繁華街をすすむ。ジャンはこういう、人がおおく、俗で、不衛生なところなど、自分からは近寄ろうともしない。けれど今回なぜ、このようなやかましい場所に足を踏みいれたかというと、馴染みのパーツ屋が店をかまえているからであった。
 肉感あふれるこの人ごみ・耳障りな笑い声・頭上でからまるけむりと湯気の白いかたまり……その不潔さ、ぞっとする。通りすぎる人間の吐く息を意識してしまえば、その生温かい温度を取り込み、こみあげてくる胃液はそのまま逆流するだろう。ジャンはなるべく人のかおを見ないようにして、歩みをすすめた。
 閑散とした路地の壁に、ぽちっと突き出たドアノブがある。知る人ぞ知る、といった、閉鎖的なサイクルを持つ店だった。
 仕事のはやさと、店主のドライさだけがこことジャンを結び付けている。頼んでおいたキャブレターは届いているだろうか。あたらしいものと交換したあとの愛機の調子を想像して、おもわず身がふるえた。
 ドアノブを持った瞬間、いつもの、拒絶するようなつめたさが感ぜられず、かわりにべたりとした、人間の脂を感じ取ってしまった。不可解な危機感に駆られ、荒々しくドアをあける。
「へえ、なかなかいいなぁ。じいさん、このキャブ譲ってくれよ。金は向こうの倍出そう。それでも駄目だってんなら……そうだな、そいつをデュエルで捩じふせてみせるさ」
 自信に満ちあふれた声が、店主に詰め寄る。カウンターに片手をついて、圧をかけるように見下ろしてわらっている。猪突猛進という単語をすこし物腰やわらかに具現化させたなら、こういう態度になるのだろう。
 なにより、激しいドアの開閉音に視線をよこしたのが、店主だけということが、ジャンの癪にさわった。
「旦那! 旦那ァ」
「ん、なんだ? 客か?」
 振り向いたその手に、自分が注文しておいた部品が握られているのを見つけて、ジャンはカッとあたまに血がのぼるのを感じた。
 引っ手繰るように奪い、代金を叩きつけて店を出る。体温でぬるくなった部品などさわりたくもなかったが、いまはただ、怒りに身をまかせることしか出来なかった。
 嫌悪をかくそうともせず人ごみに舌打ちをこぼし、繁華街の入り口にとめてきた、愛機へと腰をおろす。
「そこまで怒ることないじゃないか?」
 背中から投げかけられたそのことばをたどって、アイガード越しに先ほどのおとこを見た。
 ぴかぴかに磨きあげられたボディがまぶしい。ながい繁華街をとおるうちに、人の熱気や湯気で、生ぬるい湿度をもった風が、立て襟に吹きつけている。余裕をたたえた口元は、いまにも誘いを持ち出そうとしているかのような歪みをえがいていた。
「……」
「勝手にさわってわるかった、それは謝るよ。だからそんなこわいかおしないでくれ」
 真摯な態度だ。真摯すぎて、胡散臭くおもえた。
 部品をポケットにいれるついでに、きもちわるい感触ののこる右手をさりげなく拭った。それからクラッチを何度か踏み、振り回してくる慣性に負けぬよう、勢いよくアクセルを捻る。スピードが自分を支配するのがわかった。
「おいおい、まだはなしは終わってないぜ」
 サイドミラーにうつる、年頃の、健康的で、猛獣のようなおとこらしさを漂わせた、さわやかな笑顔をみると、虫唾がはしった。
 公道をふたつの風が走りぬける。崖のしたには穏やかならぬ海が広がっており、ガードレールはあるものの、このスピードのまえでは無力にちかいだろう。限界の速度に身をけずり、カーブをまがるたびに、自分のテクニックにしびれてしまう。Dホイーラー特有の、性癖と称してもいいほどの官能的な疼きだった。
 ジャンは意地っ張りでもなければ、自分の実力を過信する馬鹿でもなかった。ひとしきりタイヤ跡をつけたあと、パーキングに停車し、ヘルメットをはずす。自分では疲れていないとおもっていても、からだはそれなりに疲労しているものだ。休憩は甘えではない。長時間走行にあたって、必要なものだ。
「今日は天気がわるくなりそうだな。見ろよ、あっちの雲。ひと雨つれてきそうだぜ」
 ヘルメットを脇にかかえ、とおくを見通すようにしておとこが言った。言ってから、ジャンに白い歯を見せつけ、「おれはアンドレ。よろしくな」そう名乗った。
 初夏の風のような笑顔に、ジャンは見て見ぬふりをした。馴れ合いなど求めていない。人の好意をはねつけることになんの抵抗もなかった。
 Dホイールから降り、そっけなく、かおを背けたそのときのことだ。ジャンの胸の真ん中から、なにかが押し出された。ロッジへ向かう足をとめ、いま一度だまりこむ。神経をそこひとつに集中させる――
 地につけた足から、からだの中心から、あたまのなかから、全身のいたるところで、肉体にひそむ微少の気泡がはじけていることを、ジャンは悟った。全身をめぐる血液がソーダ水になってしまったかのように、浮かんでははじけ、浮かんでははじけるその気泡のうち、肩から首筋にのぼったのは、とくべつにすばらしかったので、大袈裟なまでにふるえてしまった。
 その正体はまったくわからなかった。見当もつかなかった。けれど確固たる安心感が、ジャンをいまだ無愛想にさせていたなにかを、押しのけた。
「……」
 振り向き、相対する。切りだすことばを模索しているあいだに、不穏な雲がこちらまでながれてきたのを、アンドレだけが確認した。うず高く積まれた積乱雲は、灰色のヘドロだった。
 ロッジのまえに溜まっていたおんなふたりが、こちらを舐めるように見た。ルージュを引いたくちびるを弓なりにしながら、近づいてくる。
「ねえねえお兄さぁん、いま時間ある? よかったらわたしたちといっしょにい……」
 ほそくやわらかい指が、アンドレのライディングスーツをなぞる。ひとつひとつがメスくさく、また、昆虫が折りたたんだ羽をひらくように、ながいまつ毛をしばたたかせ、上目づかいで、甘ったるい息を吐いた。
 見目麗しいアンドレは、あらゆるものから愛情を向けられることに慣れきっていた。愛されることが当然だとおもっていたし、それだけで手いっぱいになってしまうから、自分に興味のないものは、アンドレの世界には存在しなかった。
 おんなの色気をアンドレはごくごく自然な動作で避け、置き去りにし、かわりにジャンの肩を抱いた。
「わりいな、おれ、おんなに興味ねぇんだ」
 雨が降るからはやく帰んなと、背中ごしに言いつけて、半ば強引なかたちでロッジへとはいった。ジャンは合理的なおとこだ。あそこで否定し、おんながこいつを引きとめたとて、今さら付きまとうのをやめるわけがない。無駄は排除するにかぎる。個人的な理由もある、先ほどからジャンのからだを隅から隅まで微細な快感に打ち震わせていた正体を掴みたかったからだ。
 いくつか用意されたテーブルのひとつに向かい合ってすわると、アンドレがあたまを下げてきた。奇怪な髪形の、まるでユニコーンの角のような髪を、反射で避ける。
「すまん! 面倒事をさけるためだったとはいえ、おまえをダシにつかっちまった」
 距離をとらざるをえない体勢で、ジャンは、申し訳なさそうに手をつくアンドレを見た。そして、左手に装着された、ハイブリッド式Dホイールをあやつるものの特徴である、デバイスを確認する。足を組むと、アンドレの足に当たったが、特になにも言わず、ポケットに入れていたカードの束をつくえにおき、「おれはジャンだ」短く名乗った。
「Dホイーラーなのだろう? お手並み拝見といこう」
 かおをあげたアンドレの、そのゴールンイエローのひとみのかがやきを、ジャンは一生わすれないだろう。
 隙のないカードさばきは、ジャンのこころの気泡をしたたかに割りつぶした。
心酔してしまった、たった一瞬で胸がいっぱいになり、なにものにも代えられぬ存在として鎮座してしまった、そのよろこびうれしさおそろしさにジャンは呆然とする。「危なかったよ」差し出された右手を握りかえすと、手汗でしっとりと高まった体温のかけらが、自分を塗りつぶしにかかる。そのときはじめて思い知る、盲従の甘さ・侵食の素早さ・手汗の粘っこさ……
 湿った右手を握りしめた。いままでさわることも出来なかったなにかを、猛獣の手汗といっしょに、その手のなかにおさめている。