君に届け人のにおいをぷんぷんさせながら帰宅した仕事帰りの青年に、ジャックは憤る以外の反応を見せたことがない。ただいまとおかえりが飛び交うテーブルを叩き割る勢いで立ち上がり、冷えたペットボトルを煽る襟首を乱暴に引っ掴む。 「……また寝たのか」 自室まで引きずったかとおもえば、しめたドアに背中を叩きつける。くるしそうに息が詰まったのを確認したが、もう何度目かわからぬこの問答に、すっかりうんざりしてしまっている。ちいさなからだだ。窓から放り投げたら落ちずに飛んでいきそうだった。 「寝てねーよ。別れ際にちょっとハグされただけだ」 呆れたかおはマーカーをゆがませる。なみだのように頬を熾烈に引き裂いているそれが、いとしくて仕方ないものをまなでるときのように、慈愛をふくんだ笑顔をかたちづくる。 おしゃべりなくちを途端につぐんで、手をゆるめる。ジャックがそのかおによわいのは事実だった。年上ぶりたい面の皮をかぶっている。けれどその心底といったら、消費できないくらい愛されて・抗いようもないくらい支配されて・泣いてしまうまでにいためつけられたい、被虐的な欲望がひそんでいる。薄暗くつめたい檻にとじこめられた化け物を飼いならしている。その化け物を素手で撫でるのがクロウだった。 変幻自在の話術はもっているけれど、それを恋人に使用したことがない。お愛想の笑顔は特別かわいらしくて人懐こく、同時に健康的ゆえの妖艶さを持ち合わせ、シーツの波に飲まれる表情の想像は尽きることを知らない。 「なぜ……なぜだ！ 何度言っても……！ クソッ」 手を投げだし、ジャックはあたまをかかえた。ほとほと手を焼いていた。どうしたって自分の恋人はこんなに好意をもたれてしまうのだろう。もたれたにしても、拒絶すればいいだけのはなしだけれど、はね付けないのはなぜだろう。まさかそれを嬉しがっている風でもない。自分だけではだめなのか？ そこまで悩んだとき、どうしようもなくなって、八方ふさがりになって、ジャックはくるしそうに呻いた。 「ふたりともー、ごはんだよ」 ドアの向こうからきこえてきた穏やかな声に、親の手からのがれたねこのような身のこなしで、クロウはすがたを消した。呆然とするも、あきっぱなしのドアをくぐる。 数歩先を行くふたりは仲むつまじく笑顔なんか交わしちゃって、ジャックにはますます嫌味にしか感じない。こぶしを握りしめるも、それでクロウの性質がかわるなら苦労はしなかった。 「今日たいへんだった？ お仕事」 「いんや、たいしたことなかったな」 「そう。毎日お疲れさまだね、クロウ。ありがとう。感謝してるよ」 こともあろうに、ブルーノはクロウの頬にキスを寄越したのだ！ ジャックは激昂して、けもののような雄叫びをあげながらそのおおきなからだをおもいきり突き飛ばした。 「いったぁ！ な、なにするんだよ、ジャック……！」 「うるさい！！ だまれ！！ クロウにさわるな！！」 子どものような言い草に、当のクロウは眉をひそめてジャックを睨みつけた。おそろしいほど冷酷ないろをしていた。氷の化身かと思しき冷たさであった。視線は吹雪いていた。それにその場に縛り付けられたのが金髪の白熊であるジャックで、喉を引き攣らせたまま硬直してしまった。 クロウはブルーノを抱き起こし、さっさと食卓へ向かってしまった。 「お、今日はエビフライか。うんまそぉ～」 ごちそうに目尻をやわらかくするその表情は、先ほどとは結びつきようがなく、見るものすべての頬をゆるませた。それはさっきまで怒りに身をふるわせていたジャックも例外ではない。自身の食事の手をとめて、じつに青年らしいかおでわらっている。 味噌汁のうつわを置いて、しっぽを横によけたまま、白飯をかきこんでいる。くちの端に米粒をつけるなんて、いまどきアイドルだってしないようなことを、クロウはなんの思惑もなしにやってのけてしまう。 （おれの小悪魔だ……） うっとりと声を響かせた。ジャックにとってクロウは自分をたぶらかす、可愛らしく罪深い小悪魔であったのだ。 「クロウ、ついてるぞ。とってやる」 向かい側にすわっていた遊星が椅子から腰をあげ、顎を持ち上げた。なにやらただならぬ雰囲気を察知したのか、ジャックはむっとくちをつぐんでふたりを見つめている。ブルーノはまちがって噛んだあさりの貝殻を吐き出している。 おとなしく手をとめてその手の導くままにしていたら、遊星がくちの端にキスをしてきた。ジャックは息を吸いすぎたようでむせている。 「ゆ……！！」 「んあ、ありがとなー」 付け合わせのキャベツを完全にほったらかしにして、クロウは屈託のない笑みで遊星に礼を言った。それは親友にだけみせる、純粋な成分100パーセントでできた笑顔だった。クロウの無遠慮な声色がそれを証明する。このような無防備な声をだれにでも聞かせるのだろうか？ 自分をさしおいて？ ジャックは味噌汁を飲むことでおのれを落ち着かせる。 「んまかった！ ご馳走さん」 「おいクロウ、まだサラダが――」 「いいジャック、おれが食う」 「なんだと……！？」 さっさと席をたってしまった小悪魔を引きとめようとしたところ、なにやら小悪魔を捕まえようとする野蛮な輩がいる。キスだけでは飽き足らず、間接キスまでも貪るつもりだろうか？ あんなに無邪気で恐ろしく冷徹で可愛らしい小悪魔のちいさな唾液のしずくまでひとりじめしようというのだろうか？ ゆるせない。ゆるせるはずがなかった。 「きさま遊星ィー！ どれだけおれの邪魔をすれば気がすむ！ 我慢ならん、おもてへ出ろ！！」 「なにを勘違いしてるのか知らないが、売られた喧嘩は買おう」 昼間あれだけうっとうしかった日差し（なにしろ今日はあのテラス席を断って室内でティータイムをしたほどだ、日焼けはしたくない）はすっかり落ちてしまって、いまだ騒がしさののこる夜だった。 向かい合うやいなや、ジャックは殴りかかった。黄金の右腕と呼ばれた右ストレートが炸裂するが、遊星の動体視力はすさまじいので、かんたんに避けられてしまう。髪の毛先がばさりと揺れた程度で、到底ヒットとはいえない。 いちいち一喜一憂するジャックの鳩尾に、日々の生活で仕方なく鍛錬された左のこぶしがのめりこむ。肺の空気が一気に抜け、口内の唾液が散った。あまりに強烈でクリティカルな一発に気絶しそうにはなったが、凄惨な過去をくぐってきたジャックは意識を手放したりしない。近距離にいるからだに膝を叩きこむ。蹴りは予想外だったのか、これもクリティカルヒットで、遊星も同様に唾液を飛ばした。 得意げにわらったのもつかの間、今度は遊星が下からこぶしを突き上げ、ジャックの顎を叩きあげた。これが無抵抗のSPを一瞬であの世におくった、かの有名な昇蟹拳である。数センチからだが浮き、そのまま地面に倒れる。すかさずマウントポジションを取る遊星。満月を背にして表情が見えない。 （くそ……しかしここで弱ったふりをしておけば、油断するのでは……？） くるしがるのを装って目をこらす。遊星の表情を盗み見る。 「！！」 ――こいつ、わらってやがる。 友をこれだけ痛めつけて、笑顔を浮かべているだなんてとんだ鬼畜だ、こころというものがないのだろうか。ふるえてきた。檻のなかのマゾヒストも、遊星の嬉々として容赦のないかがやきを見て怯えているのだ。遊星はむかしから何事にも手加減の基準がずれていた。ぼこぼこにされたことは何度もあった。 そうだいまこの現場にクロウが見れば、ひどく傷ついたおれに乗りかかる遊星をきっと軽蔑するだろう。時間をかければ不審におもってきっと出てくるはずだ、そのためにはもっと時間をかけて、もっといためつけてもらわねば……ジャックの思考は結果に達した。 抵抗するそぶりを見せなければ遊星は殴りかかってこない。ゆるゆると握った振りあげる気もないこぶしで遊星のこぶしの雨を受け止めて、鼻血を喉のおくにすべりおとす。 （さあはやく、クロウ――） そのころ、ソファにて。 「あれ、タンクトップのここ、ほつれてるよ」 「げえ、まじかよ。こまったなァ」 「ぼくが縫ってあげるよ。脱がなくていいから、じっとしててね」 でかすぎてソファに収まりきらないブルーノの脚を眺めながら、ぼうっと膝枕をしてやるクロウは、たべわすれたエビフライの尻尾におもいを馳せている。ころりと回転したひとみが満月をそのなかに描き出す。なんてしずかで平和な夜なんだろうとわらった。 ← |