明日も空が青いと良い


 煙るような霧雨から始まった雨は二日目に本降りとなり、三日目には嵐、四日目には埠頭のコンクリートの上にちょっとした濁流を築き、五日目には少々勢いがおさまったかと思いきや、六日目の今日、真っ黒な雨雲から落ちた派手な落雷がアジトの中を真っ白に照らし出した。
「……やまねえな」
 斜めに走る雨の軌跡が後から後から窓を叩き、薄いガラスが細かく振動している。苦々しげに顔を歪めたクロウの小さなつぶやきなど、ガラスの外の轟音とガラス自身が震える音に負けて彼以外誰の耳にも届かない、そんな状況だった。
 にもかかわらず、クロウの背後で上機嫌そのもののテノールを響かせている男がいた。チームサティスファクションリーダー・鬼柳京介、その人である。
「いいか?神は六日で地を創造し、七日目は休んだっていう話じゃねえか。つまりこの雨は明日やむ、オレはそう思うね!」
 どうでもいい。クロウにとってはそんな世迷い言より嵐のせいでシティからの定期便が欠航し続けている方が余程重要だ。それはそうだろう、食料の備蓄には限りがあるのだ、まだ十分に余裕はあるものの、食う物がなくなれば人間は間違いなく死ぬのだ。
 そう昔ではない時分「人間、生きていくのになにが必要か」と、サティスファクションメンバー全員で話し合われたことがあった。記念すべき一地区目を制覇した夜。クロウが盗んできた安酒を呷りながらの祝杯のさなかであったため、誰がどんなきっかけで口にしたのかは、おそらく言い出した本人でさえ忘れているだろう。クロウの答えは至って簡潔だ。メシ。食い物さえあれば生きていける、そう答えたのだった。それは幼い頃経験したひもじさを、ありありとこの身に覚えているがゆえの回答だ。
 クロウは胃が縮れるような飢えがなにより恐ろしい。すべての気力が奪われ、絶望的な思考に支配されるあの状態が。
 空腹による命の瀬戸際をさまよった忌まわしい記憶は、まだ褪せずにクロウの脳みそにしっかりと刻まれている。そんなこともあり、自然と声音が低くなったクロウに、鬼柳はそのとき小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたのだった。
「お前、メシって。犬畜生じゃねえんだからよ、もっと、誇りとかプライドとか、人間にしかねえもんあるだろお?」
 隣で蕩けていたジャックが、その言葉を聞きつけて肘を割り入れた。この白人の男は、普段傲慢に振る舞っているが、酒が入るとすぐに顔が赤くなるため、とてもかわいらしいのだった。
「鬼柳の言うとおりだ! プライドのない者など人にあらず。ただの肉人形に過ぎん」
 ジャックの意見で気分をよくしたのか、鬼柳は不気味に伸びた左腕を彼の肩へ回し、頭をすり付けながら嬉しそうに笑んだ。その瞳の色はねこのように光った。
「だからって、プライドで腹が膨れんのかよ」
「だめだなぁ、お前は。燦々と輝く宝玉のようなプライドを胸に秘めた者が、誰にも看取られず孤独に死にゆくと思うか?」
 思う。プライドがあろうがあるまいが飢えれば死ぬ。いや、実際のところは分からない。クロウは飢えて死んだことがないからだ。死にかけたことはあったが、それはあくまでクロウの主観であって、こうして生きている今、「死にかけた」などという言葉はナンセンスに過ぎるというものだろう。
 だからクロウは別の文脈で反論した。
「プライドがどうのってのは知らねえがよ、みんなに看取られて幸福に死んだって、死ぬことには変わりねえんじゃねえの?」
「ある」
 不意に割り込んできたのは遊星だった。遊星は雨が降ろうが槍が降ろうが関係ないとばかりに今日も変わらず黙々とデュエルディスクをいじっていたので、クロウはぽかんと口を開けて遊星の方向へと顔を動かした。ところが遊星はというと忙しく手元を動かしながら目線は回路へ一直線で、クロウを一顧だにしない。まさか空耳だったのかと疑いたくなるほどだ。
「あんの?」
 間の抜けた自分の声が雨音の響くアジトを揺らした。鬼柳は片眉を上げ、ジャックはフンと鼻を鳴らし、遊星は(非常に些細ではあったものの)口元を緩めた。
「クロウがいちばんそれをわかっているんじゃないか?」
 遊星は皆まで言わずとも心得ているだろう、とばかりにそこで切った。
「まったくお前は」
 すかさずジャックが水を差す。酔いがまわってきているのかもう耳まで赤い。ジャックはクロウのみがマイノリティであるこの状況を楽しんでいるようだった。
「ピンともこないのか? だめだなぁお前は。外にでて雷にでも打たれてしまえ!」
 ジャックからの駄目だしも今日二回目となるとさすがのクロウもむっと唇を尖らすほかない。
「なんだよ、お前らだけわかったような口ききやがって……だいたい鬼柳、てめえはわかってんのかよ」
 足の先でつつくと、浮かれたような顔つきをして、ぼうっと話の輪から外れかけていたリーダーは、電源が入ったようにしなだれていた顔を起こした。そして途端に、目が覚めたようなさわやかな笑顔を浮かべ、まるで外の雨とは正反対なほどの快晴を思わせる。
「おー、おれか。ふふ。うーん、どうだろうなぁ?」
 好青年な姿勢を崩さずに、のらりくらりと交わす話術はいつものごとくお手のものだが、どこかからかうような声色である。直情的なクロウは焦れったくて仕方がない。苛立ちのため指先が小刻みに跳ね始めた。
 んふ、と鬼柳は気色悪い笑みを漏らし、そんなクロウに流し目をくれた。
「雷に打たれるか、オレに教えてくださいってお願いするか、どっちにする?」
「雷に打たれる」
 即答したクロウの肩を上機嫌で抱き寄せながら、聞いてもいないのに鬼柳は語り始めた。酒臭い。というかうっとおしい。
「だからな、神は六日間で地を作って七日目は休んだわけよ」
「ハァ?」
 意味が分からない。また素っ頓狂なことを言い出しやがった。思わず視線を向けると、ぎょっとするほど近くに鬼柳の顔があった。左右対称に位置した瞳がクロウを映し、三日月型に細められる。
「神の七日目の安息は幸せだったと思うか?」
「――……」
「ようやく終わった、でも誰もいない、そういう安息が幸せかどうかって聞いてんだよ」
 鬼柳は抱き寄せていた肩をぽんと叩くと、口をつぐむクロウの顔をのぞき込んだ。そして手に持ったままだった缶ビールを取り上げて勝手に飲み出す。おい、と反射的に声をかけると、薄い唇がきれいな弧を描いた。
「薄情なクロウ兄ちゃん、お菓子もって行くかあ?」
 つまみにしていたサラミやさきいか、ポテトチップスなどを手近なものからぐいぐいクロウに押しつける。
「はい、これおみや」
「やめろ、この酔っぱらいが」
「いーからいーから」
 せっつかされて上げかけた尻に、ジャックの長い足が蹴りを入れる。思わず振り向いて睨むが、なんとも珍しく柔和な表情をしていたため、怒声がのどに詰まってしまった。その隙を見逃さず、鬼柳が影のような手つきで、皺の寄ったズボンを撫で(本人いわく「皺伸ばし」)、痴漢と見紛うがごとき手さばきである。
 なんなんだこいつらのコンビネーションは。げっそりしつつ、たくさんのお土産を持って、クロウはドアへと足を向けた。握ったノブがひんやりとしていて、ああ、まさに雨の温度である。
「クロウ」
 後ろから無骨な声がかけられ、振り向いた顔にビニールが被せられた。胴の部分まですっぽりと収まってしまうのは、自分の体格のせいだけではないだろうと思いたい。
「風邪をひくぞ」
 下まで引っ張ってから、遊星の乱暴な指が顔の部分に穴を開けた。息が空気に溶けて冷たい。
「はやく帰ってこいよーお」
「ついでになにかかっぱらってこい」
「気をつけてな」
 見送られて、どしゃぶりの雨の中、体温は下がり続けたが、クロウの心はよりいっそう熱く燃え、目には爛々たる光が差していた。
 その瞳が見上げるのは何色の明日だろう。


( 明日も空が青いと良い / 20120311 )
坂井ユウ猫背もだのリレー小説でした!分担はこちら、タイトルはプルチネッラさんより